多くのクリスチャンが終末の時代に起こっている現状に対して必要レベルの関心を持っていません。関心を向けていくためにはその時代に応じた主が導かれる世界観を持つ必要があります。
20世紀に入るまで、イスラエルやユダヤ人という存在を教会が無視することを神は容認されていました。けれども、今日、それらを含めることなしに福音の全体像や終末を知ることができません。
それと同様に、20世紀まで教会が終末におけるサタンのアジェンダ(予定表・計画の意味)無関心であることを容認されていました。けれども、今の時代私たちは終末時代の主のご計画とサタンのアジェンダの進行具合を見据えていかねばならないのです。
それはたとえ世の中がどんどん悪くなって問題が大きくなったり患難期に入ったとしても主が来られるから大丈夫だという世界観です。
特にこのレフトビハインドは患難前携挙説を採用しているので、この小説の世界観を持つなら「たとえ世の状況がどうなろうと私たちは天に引き上げられて、人々が苦しむのはその後の出来事だ。」という考えを無意識のうちに持ってしまい、それによって現実から目がそらされてしまいます。
それゆえ、表面的に見える問題である戦争、貧困、道徳の退廃などに対しては、事が起こってから、あわてて祈るのですがその問題の根に目を向けようとはしないのです。
もちろん問題の大元がサタンであることは知っているので、霊的戦いやとりなしによって対処するのですが、実際にサタンのアジェンダがどのような形で進行していくかに対しては目向けないのです。
つまりサタンと現実世界の中間的な存在目を留めることが抜け落ちてしまっているのです。
その言葉は聖書に対する無理解から起こった勘違いです。それは主の再臨は世の中がどんどん悪くなって患難期が起こり、その前か途中か後にあるはずなので、再臨をもたらすためには患難期は来なければならない、極端な言い方をするなら「世の中が悪くならなえばならない」という間違った考え方です。
そうであるなら「私たちが患難を通るかどうか、あるいはそれが短くされるかどうかは私たちが目を開いて世の中で起こっている出来事に関心を持ち、それに対してとりなすことにかかっている。」のです。
確かに患難の中でわれわれは主に叫び求めることでしょう。けれども目を開いて見張っている事によって今から何かできるのであるなら、私はそれが起こる前に短くなるようにしていきたいです。
いずれにしても、私たちは目を覚ましていましょう。
「ひとに惑わされないように気をつけなさい。(マタイ24:4)」
ある人は、主に心を向け、主を賛美していれば良いと言います。もちろんそれはもっとも重要なことです。けれども、それは1914年に起こったアルメニア人の大虐殺において殺されたクリスチャンもそうしていました。
彼らには十分な判断材料が与えられていたにもかかわらず現状に目を向けようとせず、霊的な事柄だけに目を留めて、主が守ってくださると楽観していたのです。
この時の出来事は「地上最大の成功者・あるクリスチャン実業家の証し」の中に詳しく書かれています。
主を見上げるだけで、現実に起こっている出来事を見ようとしなかったときに患難が襲ったとするならば、今日私達も主を見上げていくとともに現実に進行している出来事も見ていかねばならないのです。
(マタイ10:16) ですから、蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい。